支援の狭間に手を差し伸ばしたい―「NPO法人ぷらっとほーむ」の紹介
NPO法人ぷらっとほーむ副理事
元高校教師、臨床心理士、公認心理師 高須 了
原稿の依頼を受けたその日に、3年前に亡くなった教え子の女子の死のいきさつを詳細に述べた記事が新聞に掲載された。児童養護施設を出た後、家族のもとへ戻れない人達「ケアリーバー」への支援の必要性を述べた記事だった。政府はアフターケアの対象年齢の制限を撤廃する方針を出し、その支援の担い手は、施設になる見込みだが、行政や福祉事業などの他機関と連携した支援体制が必要と記事には書かれていた。
彼女は愛知県下の高校に初めて配属されたSSWのイニシャルケースの生徒だった。SSWは彼女の受けた虐待を察知すると児童相談所(以下児相)を介して児童養護施設、自立援助ホームへと繋いだ。逸脱行為を繰り返す彼女を学校では担任、養護教諭、部顧問、相談部の教員が支えた。数人の友人達が彼女に寄り添っていた。やがて20歳を超え、児相の対象年齢外になると、彼女へ関わる法的な拘束力は無くなり、夜の世界に生活の資を求めるようになった。彼女は転籍した学校には在籍していたものの、学校との関わりは間遠になっていった。時折、学校をやめた友人と顔を見せ、ひとなつっこい笑顔をふりまき、冗談を飛ばしていた。記者に話題を提供した養護施設の職員と同じように、一部の教員達は彼女とは仕事の枠を超えて繋がり、彼女を励まし、支えていた。彼女は母の住む町にやってきて、亡くなった。
皆通夜の夜集まった。義父と笑う母親を見て、胸が痛かった。彼女は最後まで母親を求めていた。
「NPO法人ぷらっとほーむ」を紹介するにあたり、彼女の死にふれたのは、法人の背景、成立した環境、支援者の思いがそこにあるから。これから法人の成立の経緯を書いていくが、それはぷらっとほーむの活動の趣旨そのものである。
【定時制高校の親の会から、地域の親の会、若者の居場所づくり、そして上映会】
ぷらっとほーむの起源は、ある定時制高校にある不登校の親の会である。定時制に入学しても不登校!、校内で不適応を起こす、どうしたらいいか悩む親たちが親の会に集まって思いと知恵やスキルを共有し、子どもを見守り、それを一部の教員がサポートしてきた。卒業後も親たちは話す場がほしいということで、刈谷に「ぽかぽかかい」(親の会)が作られた。そして子ども達の居場所を作ろうと、「FilmStaytion」が活動を始めた。二つのボランティア団体が協力し、2016年8月刈谷日劇で『隣る人』を上映し、午後には生きにくさを抱える子ども・若者と親たちが集うワークショップを企画した。
【2017年 『ぽかぽか会』『FilmStaytion』が行政、地域の支援者と連携。シンポジウム実施】
この頃から、自分達は「支援の狭間」という言葉を使うようになった。衣浦東部保健所で行われる「ひきもり支援ネットワーク会議」の後に、当時の課長の検校さんが、愛知教育大学の川北先生や、蒲郡若者サポートステーション(以下サポステ)の鈴木さん、講師の人、自分をお茶に招き、地域で何かできないかと問題提起をした。その流れで二回、保健所の一室で地域資源の活用について話し合いを持った。異例なことだ。その後、行政も加わり、『子ども、若者支援から始まる刈谷の地域づくり実行委員会』を立ち上げ、市の生涯学習課の場所を借りて、川北先生を中心に毎月、18時以降、集まってシンポジウムの企画を話し合った。これも異例なことだった。
2017年7月にシンポジウムを実施。午前は名古屋市子ども若者総合相談センターの渡辺ゆりかさんに講演をしてもらい、支援者のワークショップを行った。午後には不登校経験の若者と、親たちから話題提供をしてもらい、支援者、親、若者を交え、茶話会を行った。
2009年に「子ども・若者育成支援推進法」(子若法)が成立したが、これは努力義務の法律で実施の有無は市町の行政に任されている。当時は愛知県内でも実施している市はそれほど多くなく、自分達の活動は、この子若を刈谷市で実現したいという問いかけであった。
シンポジウムには多くの支援者、親子に参加してもらい、成功裡に終わった。実行委員会は解散し、せっかく灯した炎、消さないためにと、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、4人でNPO法人の立ち上げを決めた。名前は『ぷらっとほ~む』。コアのメンバーは、皆、他に生業を営む者ばかりである。
2018年7月1日に発足を目標に、シンポジウムで一緒に話し合った地域の支援者の方達に理事をお願いした。
【2018年 「NPO法人ぷらっとほーむ」の設立・子若法の実現に刈谷市が動き始める】
2018年5月30日刈谷市の生涯学習課は、子若法に基づき、第1回刈谷市子ども若者支援地域協議会を立ち上げ、実施した。
ぷらっとほーむでは、5月より、ニーズ調査と隔月の勉強会を実施。ニーズ調査は刈谷市の医療・教育・福祉・行政・NPOの支援機関に向けて、不登校、ニート、引きこもり等の生きにくさを抱える子ども・若者やその保護者からの相談件数や、支援で困っていること、総合相談の窓口や居場所の必要性を問うものだった。これらは、市で子若の総合相談の窓口の設置に資する情報と考えて実施し、9月の地域協議会で発表した。
隔月の勉強会は、総合相談の窓口、社会的居場所、ひきこもり支援などをテーマとして、講師を招いて説明をしてもらい、話し合うものだった。それと並行して『サポステと連携した社会的居場所づくり』についての話し合いを5月から毎月行った。刈谷で半公的な若者の居場所ができないかと模索する話し合いだった。また、5月から相談活動も開始した。市内の公共施設を借り、支援者二人ペアで、利用者の相談を受け始めた。
【2019年 病院の2階を借りて、活動拠点での勉強会、居場所、相談活動の実施】
2018年12月、市のボランティア団体の交流会で、看護師の中野さんと出会った。彼女の働きかけで、地域の病院の使わなくなった2階をお借りできることになった。ゴールデンウィークに、のべ80人を超えるボランティアの皆さんの協力で、病室の改修を行った。三部屋サイズの集会所を作り、ベッドを撤去して、二つの学習室、二つの相談室、一つの居場所、そして休養室を作った。ナースステーションだった場所を念願の事務所とすることができた。
7月に事務所開き、そして活動開始。第1土曜日は支援者のための勉強会、第2から第4土曜日の午後は居場所活動を行った。並行して随時相談活動も再開した。公共の施設を借りて実施していた「ぽかぽかい」、「FilmStaytion」もここで行った。ぷらっとほーむの会員や、ボランティアがスタッフとして運営に携わり、事務所にはスタッフの楽しげな茶飲み話の花が咲いた。本当にわくわくした。
勉強会は、日本福祉大学の竹中哲夫先生をお招きして、ひきこもりの人への支援について講演をしていただき、そのテキストをもとに自分達で学び直すところからスタートした。その後、11月からはオープンダイアローグに着眼し、ケロプダスを取材したドキュメンタリーを観て、斎藤環氏のテキストやヤーコ・セイックラ氏の著書、森川すいめいさんの新書等を皆で読んできた。そして自分達で、対話の実践、練習をしてきた。この勉強会は2022年6月まで3年間続けた。
オープンダイアローグ=開かれた対話は、ぷらっとほーむの相談が手本とする手法である。ぷらっとほーむが行う相談は、一つのケースに二人、または三人が担当する。心理士、社会福祉士、精神保健福祉士、キャリアコンサルタント、教員、看護師等、専門性の違う、なるべく性別も異なる者が担当するようにしている。ひきこもりの人の支援相談の場合、来所するのは一人の親が多いが、なるべく両親に相談に来ていただき、一緒に話し合う。子どもも来所し、一番多い時は7名での相談もある。まだ理想の対話とは程遠いが、また勉強会を再開し、対話を深めたいと考えている。
【2020年 コロナ感染拡大、2022年 二度目の変化の年、そして今後】
活動は順風満帆かと思われたが、2020年2月頃からコロナ感染が拡大し、病院は使用できなくなり、活動拠点を失った。居場所、親の会は休止状態となった。しかし、幸いなことに、刈谷市の子ども若者総合相談窓口をぷらっとほーむが受託でき、9月から市の子ども相談センターで毎週土曜日に相談活動を行うようになった。刈谷市在住、在勤、在学の人は、市の総合相談窓口で、他市の人は、ぷらっとほーむの独自の相談(ぷらもーる相談)を利用できるようになった。
2022年からは、二度目の変化を迎えている。4月安城市美園町に、3階の民家(うち2、3階)を借り、再び事務所を持つことができた。そこでぷらっとほーむの相談と居場所活動を再開した。総合相談窓口も、週二日に面接の枠が拡大した。また愛知県の若者外国人未来応援事業を6月に受託し、毎週水曜、金曜の16時から18時、刈谷市の城町図書館で若者と外国人の学習支援、日本語支援を行ってきた。さらに10月には市の子若法の居場所づくり事業を受託し、第2、3、4土曜日の午後居場所を城町図書館で実施している。第1土曜日の午後には、ハイウェイオアシスの傍の農園で、若者の居場所づくりとして畑活動を行っている。
今後は刈谷市に部署や年齢制限を超えた本当の総合相談の窓口ができること、学校も適応指導教室も行けない親子の居場所を事務所で作ることを思い描き、活動を続けていきたいと思う。
この原稿の依頼を受ける数日前、卒業生から友達が死にたいと言っていると電話がかかってきた。ラインも既読がつかなくなったと。彼女もケアリーバーだった。卒業まで、SSWとSC、自分も関わった生徒だが、就職後はどこからの支援もなかった。悔やまれる。子若の枠で支援の手を伸ばすも、最初、児相にも養護施設にも、実家の情報開示は拒まれた。三度目のチャレンジで、児相が動き、母に電話をしてくれた時には、手遅れだった。彼女のご冥福を祈り、支援の狭間がなくなるよう、切に願う。